Archive for 4月, 2015

朴裕河『帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い』朝日新聞出版(2014)を読んでみた

面倒なので、このブログではあまり書評的なことはしていないのですが、あまりにも気になる点が多いので、いくらか批判的に指摘。

※ビール飲みながら書いてます。

 

◎だいたいすぎる内容のまとめ
まず、この本で主張されていることは、だいたい以下のような点が確認できる。
①慰安婦のイメージは「性奴隷」「売春婦」のように固定されがちだが、その様態は非常に複雑で多様。
②とりわけ、朝鮮人慰安婦/慰安婦業者は、植民地支配によって日本に協力。
③だから、慰安婦は強姦される敵の女ではなく、擬似日本人であり、同士的存在。
④そして、この慰安婦問題の法的責任の主体は業者(甘言・拘束など、物理的犯罪の責任主体)。道義(道徳?)的責任の主体は国家(構造的犯罪性の責任主体)。
⑤韓国の挺対協が求めているのは日本国家の法的責任と公的賠償。しかし、直接の犯罪は業者にあり、国家の直接的責任を問えない。ゆえに、賠償も難しい。国際法も損害賠償を請求する根拠にはならないし、民放の不法行為では賠償の必要性を言えなければならない(最後の一文はあってるのか?)
⑥また、補償という意味では、韓国の憲法裁判所が出した判決もあげていた日韓協定でも植民地だったがゆえに諸々うまくいっておらず、法的根拠がない。しかも日韓併合自体も合法だった。その意味では、国民基金が行ったことは日韓協定を維持しつつなされた実質的補償ではないか、窮余の策だけど。
⑦でも、支援者たちはこれは「(法的)責任を回避」とか「不徹底」とか「法的責任を回避するために、「道義的立場」が強調されている」と批判されたが、そもそもある「片一方の理想(性奴隷ナラティヴで日本の責任追及を行う立場)」を構成員全体を代表する国家に求めた。でも、政治問題化したものは、ある程度の合意点で解決に向けて動く他ないし、それが限界でもあり、ときに可能性にもなりうる。
⑧現在の慰安婦の公的記憶は〈植民地支配〉の問題が捨象され、普遍的な女性人権問題になっている。そこにいろいろ誤解がある。
⑨それによって、普遍的な〈男性・国家・帝国〉の問題を扱えなくなっている。

そして、第4部よくわかんねぇ(笑)。ここは今後疑問点として考えてみよう。

◎疑問点・つまづいた点
A. 資料/内容イケてんのか!?
挺対協の資料が用いられて、その中にも、また別の著作の中にも様々な慰安婦の語りが取り上げられ、いかに現在の慰安婦のイメージが固定されたものか批判し、状況は多様であったこと、日本への協力者でもあったこと(他侵略国の人よりも上の位置にいたなど)が語られるが、その資料は妥当か。

これについてはすでにネット上に多くの指摘があって、そちらの方が詳しい。
例えば、「性病防止などが慰安所を作った第一の理由に考えられているが、それはむしろ付随的な理由と考えられる」(31)といい、擬似日本人として慰安をさせることだというのだが、さすがに31ページのこの箇所は明らかに単なる読み替えで史料的根拠はない。こういう点が端々にある。せいぜい、そうとも見える、という程度だが、それでこれまでの歴史解釈(強姦・性病防止のために慰安所を作った)が覆せると思えない。あまりに文学。引用のずさんさ(根拠なき「~考えるべきだ」「~はずだ」「違いない」の乱発)などの指摘も納得。
http://readingcw.blogspot.jp/search/label/%E6%9C%B4%E8%A3%95%E6%B2%B3%E3%80%8E%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%85%B0%E5%AE%89%E5%A9%A6%E3%80%8F

 

B. もしこれが妥当だとすると、、、問題。
同様に、出典と論証が杜撰だと思うのだが、日本兵との恋、いい仲などの話題はすでにたくさん主張されてきた。しかし、それはある種の慰安婦イメージの多様性として「右派」が好んで用いてきたことである。しかし、それに対して別の枠組みで批判がなされたきたわけだから、結局右派の上塗りになっているだけだと思う。

そして、重要なのは、もしそこに生きた人々の多様性だけを主張するなら、奴隷制度でも満足したり、いい恋したりした人はいたし、アウシュビッツの中だって多様性だらけだ。なので、ぶっちゃけ何の主張にもなっていない。

しかし、それでも慰安婦問題においてある特定のイメージを問題視しているなら(実際にしている)、そこには必ずそれを問題視するための規範的なジャッジがあるはずだ(それが多様性を一度脇に置いたとしても、だ)。

だけど、朴裕河はこれに対しては驚くほど意味がわからない。

 

C. なにが「問題」の根拠なのかさっぱりわからん。
既出能川元一さんらのブログでも「著者は前記のように支援運動を批判する一方で、「『慰安』というシステムが、根本的には女性の人権に関わる問題」(201)であるとか、「植民地だったことが、最初から朝鮮人女性が慰安婦の中に多かった理由だったのではない」(137、なお53-54、149も参照)などとも主張している。はたして本書から首尾一貫した日本軍「慰安所」制度についての理解を得ることができるのか疑問である」と指摘されているように、この本はかなり論理の構築に難がある。もちろん史料による論証も含めてであるが。

僕が最初に引っかかったロジックは32ページ(長いので中略を含みます)。

「日本軍は、長期間にわたって兵士たちを「慰安」するという名目で「慰安婦」という存在を発想し、必要とした。(……)他国に軍隊を駐屯させ、長い期間戦争をすることで巨大な需要を作り出したという点で、日本はこの問題に責任がある。(……)不法な募集行為が横行していることを知っていながら、慰安婦募集自体を中止しなかったことが問題だった。(……)慰安婦の供給が追いつかないとわかっていたら、募集自体を中断すべきだっただろう。数百万の軍人のせいよくを満足させられる数の「軍専用慰安婦」を発想したこと自体に、軍の問題はあった。慰安婦問題での日本軍の責任は、強制連行があったか否か以前に、そのような〈黙認〉にある。その意味では、慰安婦問題でもっとも責任が重いのは「軍」以前に、戦争を始めた「国家」である」(32)

意味がわからないわけです。

ポイントは、「責任」です。
「軍専用慰安婦」を発想したこと自体、そして巨大な需要を作り出して、不法な募集行為が横行していることを〈黙認〉したことに責任があり、それは「軍」よりも戦争を始めた「国家」に帰せられる、と。

オッケー。一個一個考えよう。
どんな「責任」かは、本書では「道義的責任」のようだ。つまり道徳的責任moral responsibiltyなんだな。

では、「軍専用慰安婦を発想したこと自体」に国家責任はあるか?
ない。あの子のことめちゃくちゃにしてやるぜー!って俺が妄想すること自体に責任は帰されない。そんな発想はよろしくないって規範的に怒られるだけ。

次行こう。「巨大な需要を作り出し」たことに国家責任はあるか?
ない。需要を作り出すこと自体はそもそも問題ではない。性的なものであるから問題だと考えられる。しかし、現在の性風俗だって巨大需要だ。それを作り出したのが万が一国家だったとして、責任はない(さらには、需要がコントロール可能とは言い切れないし)。となるとこの性に関する需要に国家責任があるとすることができるロジックは何になるのか。書かれてない。

次行こう。「不法な募集行為が横行していることを知っていながら〈黙認〉したこと」に国家責任があるか?
ない。むしろ直接的には軍に責任があるだろう。つまり、飲酒運転禁止の法を作るのは国家だけど、そうした不法行為が横行してても取り締まらず黙認するのは警察の責任だ。国家じゃない。

ともあれ、だ。ともあれ、法的責任が立証しにくいのは俺もなんとなくわかる。しかし、だから道義的責任が生じるとする場合にも、それを規範的にジャッジするものはなんなのか?本書はそれに回答していない。被害があるから責任が生じる。あるいは不正義があるから責任が生じるってのはよく分かる。しかし、そう言わないからわからんのだ。

本書は、それを「被害」や「暴力」という言葉では語らない。そうじゃなくて構造的なものだという。それはこの本では「性的搾取」「家父長制」「植民地支配」なんだと思う。なんだけど、それがわかんない。というのは、「性的搾取」「家父長制」が問題とすれば、それこそなんで慰安婦問題が重要なのかという根底を掘り崩してしまう。性的搾取も家父長制も、今も存在する。さらには、「植民地支配」が問題だというのであれば、やはり他の植民地支配問題のワンノブゼムになり、他の補償・賠償との異同が問題になると思うが、それは無視されていてよく分からない。要するに、シンプルに言えば、朴裕河が「道義的責任」というとき、その背後にどういう「不正義」が想定されているのかわからないということだ。それが上で検討したようなことなら、それは責任として成立していない可能性がある。

 

D. 植民地主義の問題の主張はイケてんの?
そう考えるともっとわかんない。つまり、全体的にカテゴリミステイクをしているように思えちゃう。

「(引用者注:90年代後半以降慰安婦問題をめぐる韓国と北朝鮮の交流が深まったのは、)朝鮮人慰安婦問題が最初は〈植民地支配〉による朝鮮民族問題と認識した必然の結果だった。しかし、その後の運動は、世界との連携の過程で問題を〈普遍的な女性人権問題〉として位置付け、植民地支配問題としての捉え方を強調しないようになっていた」(302)、本来フェミニズムとポスト・コロニアリズムに基づく「国家」批判だったはずの運動を、批判対象を「日本」という固有名に限定したことで、慰安婦問題を〈男性と国家と帝国〉の普遍的な問題として扱うことを不可能にした(275)

彼女は上の引用のようにいうけれども、そもそも普遍的な人権問題のサブカテゴリに女性の人権問題は位置付けられるし、植民地支配問題(男性と国家と帝国の普遍的な問題)もまた普遍的な人権問題のサブカテゴリだ。だから、同じカテゴリ内でどっちが上だ、と言っても根本的な批判になっていないし、後者が重要だというためには、前者のダメさをしっかり批判できていなければならないけど、そういう書き方はしない。それを無視して資本とかの話に行っちゃう。しかも別の箇所では、「『慰安』というシステムが、根本的には女性の人権に関わる問題」(201)とか言ってて齟齬が大きい。

つまり、少なくとも構造的問題に関する道義的責任は追求したいようだが、その道義=道徳を踏みにじったとする規範的な判断が何に支えられているのかわからない。これは普通にロジックとして杜撰でしょ。それを褒めるとか知識不足とか以前に誠実さを欠いている。

ま、あまり付き合うつもりはないけど、5月の書評会までもうちょっとチェックします。

16443